「クエルナバカの碧い空」
-呑気家族のメキシコ移住計画-
出版:近代文芸社
石田 かり・著
第27章 「仕事をしよう」
 −−しかも、時には、コンサートの後に、演奏者も一緒に食事をする晩餐会 に招かれたりもして、自分が何か文化人のような気にもなるのである。だから、 手伝っている手間よりも、顔の広いワトソン夫人の紹介で、さまざまな人に会 うことができ、私が受ける恩恵の方が何倍も多い。−−                            以上抜粋でした。 今回のアミーグス・デ・ラ・ムジカの10周年のフェスティバルでは、本当に 沢山の恩恵を受けた。 毎晩のように、コンサートの後の夕食に誘われて、殆どこの1週間、音楽家達 と一緒だった。特に、モレーロス州自治大学でのコンサートの後にあったカク テル・パーティでは、地元のテレビ局も来たので、皆浮き足立ってしまった。 場所は、前回の訪問者の欄に登場したロクサーナさんのお家で、例のベッド・ アンド・ブレックファスト兼の大邸宅。ワトソン夫人や、スペイン語がわかる ヴィオラ奏者のラウラのインタビューもあって、そのつもりはないのに、そば でテキーラを能天気に飲んでいた私達まで、ばっちり映ってしまった。
テレビ取材に応じるラウラ(ビオラ演奏:中央)と友人のグラシエラ(左)

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12月1日は、中休みでコンサートはなかったのだが、2日のコンサートでメ
キシコ人の音楽家(フルート、クラリネット、パーカッション、コントラバス)
達と共演するための、初の音合わせの練習が一日中行なわれた。本来は、2日
のコンサートの2曲目に、アコーディオンの演奏も入る筈だったのだが、これ
が気難しいババヤンの気に入らなかったようだ。なにせ、ワトソン夫人が声を
かけたアコーディオン奏者は、楽譜を見た途端に全員が病気になってしまって
断られたといういわくつきの曲である。初練習の当日に来たアコーディオン奏
者は、その場で譜面を見せられて、どんなに面食らっただろうか。

その時点でババヤンは、アコーディオンを諦め、プログラムの変更を決めてし
まった。そして、もとのよりもずっと複雑なプログラムが出来上がったのだ。
ところが、新しいプログラムを印刷している時間はもちろん無い。ざっと手書
きにしたものをもとに、ワープロで作って、翌日、即ち、コンサートの当日の
朝にチェックしてもらうことになった。

翌朝、練習している筈のボルダ庭園内のマヌエル・ポンセ講堂に行くと、もう
帰ったといわれて、オロオロ。ババヤンが泊まっているセニョーラ・エブリン
の豪邸はすぐ近くだから歩いて行くとと、ここももぬけの殻でウロウロ。で、
今度はタクシーを飛ばして、他の4人が泊まっているジーンの豪邸に行く。そ
こで、覚悟を決めて待つこと20分、ぶらぶらと散歩しながら帰ってきた音楽
家をやっと捕まえて、細かい指示をもらい、大急ぎで家に帰ってタイプをし直
し、コピーを200枚とって、会場に駆け付けたのが、コンサートが始まる2
時間前という慌ただしさだった。

音楽家たちはまだ若いから、私達と会ったその後、テポツトランという近郊の
村に出掛け、テポツテコという山に登ったり、民芸品を見て回ったり。彼らが
クエルナバカに戻ったのは、プログラムのコピーを作り終わったのと、ほぼ同
時くらいだから、全くの自転車操業。大変なものでした。コンサートが大成功
だったからよかったものの・・・。

翌日は、もう早アメリカに帰るのでジーンの家に、空港行きのミニ・バンを手
配してあるのに、やっぱり買物に行っちゃった彼らを待ってイライラ。みんな
が揃い、お別れの時が来ると、彼らは、雑用係の私のことまで、メキシコ風に
固く抱き締めて、また会おうと言ってくれたのだから、最後まで感動。

アミーゴス・デ・ラ・ムジカが金欠病なのを知っていて、自分は無報酬でいい
から、他の若い音楽家たちに出演料をきちんと払って欲しいと言って、彼らの
力をフルに出させたババヤン。

来るときの飛行機の中で、他の音楽家たちと初めて会って、一緒に演奏したと
いうのに、皆とすぐに仲良くなって、とっても楽しいから、ぜひ、アンサンブ
レ・ババヤンの一員としてまた来ると誓ったラウラ。

最年少でいながら、落ち着いていて、飛び込んできたファンの女の子にもやさ
しく接していたジョナサン。

エディスも、スーレンも、ドミトリも、みんなクエルナバカが好きになって、
3月には戻ってくると約束してくれた。

本当に、ウラもオモテもひっくるめて、感動の一週間でした。


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