「クエルナバカの碧い空」第43号
#4 トピックス − RUTA DE ZAPATA 革命児サパタを辿る道
11月20日はメキシコの革命記念日で、学校も会社も休みになります。それを記念
して、モレーロス州出身の革命の英雄EMILIANO ZAPATAを辿る道RUTA DE ZAPATA
を紹介します。
これが革命児サパタ、精悍な顔つきが印象的です
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奇しくもメキシコ独立の父ミゲル・イダルゴが1810年9月に独立運動のGRITO雄
叫びをあげ、鐘を鳴らした100年後、メキシコ・シティのレフォルマ大通りに独立
100年を記念したアンヘルの像が立ち、祝賀式典が行われたその直後に、革命運動
が始まりました。
1910年11月20日に始まり、終結したとされる1920年までに、メキシコの人口は
約1500万人から1400万人に激減しました。この10年間の死者、行方不明者、
キシコから逃げ出した人などの数が100万人にも及んだのですから、各地の戦闘
や、治安の悪さによる略奪や暴行、疫病の発生、飢餓など厳しい世相が伺えます。
革命は、当時既に30年間も大統領の座にあったPORFIRIO DIAZ氏の再選出馬に反対
し、見捨てられていた貧しい人々を救おうと、FRANCISCO MADEROマデロが、国民に
対してディアスの独裁政治に叛旗を掲げるよう呼びかけて始まりました。世の中にま
っていた不満が爆発するように、呼びかけに応じたのが北のFRANCISCO VILLAパンチ
ョ・ビジャと、南のEMILIANO ZAPATAです。いずれも、マーロン・ブランド主演の
「反逆児サパタ」など映画でもお馴染みですが、中でも、農民運動から身を起こし最
後まで農民の味方として戦い、英雄として称えられているのがエミリアノ・サパタで
す。農民運動をする人々が今もZAPATISTAサパティスタと称するのもこのためです。
モレーロス州に生まれ、土地を搾取されて貧困に喘いでいた農民に土地を取り戻そう
として革命運動に参加し、最後もモレーロス州で死んだサパタの銅像やレリーフ、博
物館が各地にあります。沢山の人々に英雄の辿った道を知ってもらおうと、モレーロ
ス州の観光局が考えたのが、小さなツアーRUTA DE ZAPATAです。ガイド付きのツアー
もありますが、クエルナバカからなら一日で巡れる旅なので、ちょっとドライブして、
通りかかる人々に道や場所を聞きながら訪ねてきました。
ANENECUILCO(サパタ生誕の地): 1879年8月8日、エミリアノ・サパタは、CUAUTLA
クアウトラ市から南へ5キロのところにあるアネネクイルコで生まれました。子供時
代から農民の土地を守る運動に関係していたサパタは、若いうちに孤児となりました
が、1909年9月12日の秘密集会で、アネネクイルコ委員会の会長に選ばれました。
アネネクイルコにあるサパタの生家は長い間放置されていましたが、1960年11月に
CASA MUSEO EMILIANO ZAPATAエミリアノ・サパタの家博物館として生まれ変わりまし
た。敷地内には、ROBERTO RODRIGUEZによる「サパタ闘争の生涯」を描いた有名な壁
画が飾られています。博物館内には、半分崩れた、質素なレンガ造りの家が保存され
ています。ガイドの人が飾られた写真などの説明をしてくれますが、入場料は無料、
ガイドへのチップをお忘れなく。
ザパタの貧しい生家 サパタ闘争の生涯を大壁画で紹介している
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VILLA DE AYALA(プラン・デ・アヤラ作成の地): マデロが国民に蜂起を促すと、
北のチワワ州ではパンチョ・ビジャが、南のモレーロス州では、1911年3月、サパ
タが農民を率いて立ち上がりました。同年5月にポルフィリオ・ディアス大統領が辞
任し、パリへ亡命します。デイアスに代わって選挙に勝ったマデロ新大統領は、サパ
タに武器を捨てるよう求めますが、まだ奪われた土地が農民の手に戻ってこないこと
から、武器を捨てる事を拒み、この年の11月28日、「TIERRA Y LIBERTAD土地と自
由」をスローガンに、「その手を使って働いた者に土地を取り返そう」というPLAN
DE AYALAアヤラ・プランを打ちたて、戦いを続けます。アヤラ村はアネネクイルコ
の南1.5キロにあります。
TLALTIZAPAN(作戦本部があった場所): 1914年、サパタはEJERCITO LIBERTADOR
DEL SUR南部解放戦線の作戦本部を、トラルティサパンの精米工場があった建物に設
置します。この建物は現在はMUSEO DE LA REVOLUCION DEL SUR南部革命博物館とな
っています。博物館には、当時の写真、手紙などの書類、サパタの衣装(暗殺された
ときに着ていた血のついたズボンもある)、当時流行りの大きなソンブレロや武器な
どが展示されており、建物の裏には、もとの精米工場の精米機(今はあまり見かけな
いが、10ペソ札の図柄になった)や、銀を溶かして硬貨を作った釜、厩舎などがそ
のまま残っています。ここも入場料は無料ですが、心づけを置いてきましょう。
暗殺時にはいていた血の付いたズボン、当時のソンブレロなど展示している
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トラルティサパンは、アヤラから南へ約16キロの三叉路を西へ、テケスキテンゴの
湖の方向に曲がって16.5キロのところにあります。静かな小さな村で、丁度、お昼
どきでしたが、レストランも見当たらず、すきっ腹をかかえて次の土地に移ることに
しました。
革命の目的を果たす事ができなかったマデロ大統領は、1913年2月に、アメリカの
介入で大統領になったビクトリアノ・ウエルタに追い出され、やがて暗殺されました。
1913年にアメリカの大統領となったウッドロー・ウィルソンはウエルタ政権を認め
ず、1914年、ウエルタは国外に去ります。サパタとパンチョ・ビジャは農民の間で
土地を分割するという案に合意し、新政権を建てようとしますが、ウエルタ代わって
現れたベヌスティアノ・カランサはこれに反対し、軍事力で優勢だったカランサが各
地の戦いで勝利します。カランサは、1917年2月5日、労働者や農民の権利を明記
した新憲法を発布し、新憲法に則った最初の大統領として、政権を樹立しました。
CHINAMECA(サパタ暗殺の地): 農民の間で英雄となったサパタは、カランサ政権
に反抗してなおも農民運動を続けます。カランサ大統領は、サパタ暗殺の指令をパブ
ロ・ゴンザレス将軍に出し、将軍は、その任務をヘスス・グアハルド大佐に命じます。
グアハルド大佐はサパタの味方であるふりをし、サパタの信頼を勝ち取ります。1919
年4月10日に、HACIENDA DE CHINAMECAチナメカ荘園で彼と話し合うことを約束した
サパタは、小人数の部下だけを引き連れて、チナメカ荘園に到着しましたが、その時、
待ち伏せしていたグアハルド大佐たちに襲撃され、ほぼ全員が討ち死にしたのでした。
サパタは長い戦いの生涯で、いくつも人間的な間違いを犯し、性格も完璧とは言えず、
同盟者に対して嫉妬の念をいだいたり、あるいは信頼し過ぎたり、何度も裏切を味わ
いました。しかし、彼が人を裏切った事はなく、このような性格を利用したグアハル
ド大佐の作戦は見事に成功したのでした。
チナメカ荘園は、革命以前に建築された最後のさとうきび荘園で、サパタ自身、こ
の荘園で、砂や石灰、石などを運搬する請負人として働いた事があります。この荘園
の持ち主であったビセンテ・アルフォンソ・シモンは、「自分の死後には、荘園を建
てるために農民から取り上げたこの土地を、農民に返す」と約束したにもかかわらず、
シモンの未亡人はこの約束を果たさず、サパタが農民のために戦うきっかけにもなっ
た場所でした。
まだ銃弾の跡も生々しい荘園のアーチ型の門には、彼が銃撃に倒れた丁度その場所に、
馬上のサパタ像が建てられています。すでに荘園建物の大部分は破壊されていますが、
門の奥の建物跡に小さな博物館があります。
銃弾の跡も生々しい荘園のアーチ型の門
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当時の政府は、サパタは死に、サパティスタの運動も終結したと、農民達に知らしめ
るため、クアウトラ市内にサパタの死体を持ち運び、見世物にしましたが、かえって
農民の反感を呼び、運動が今だ終結していないのは周知の通りです。
チナメカは、トラルティサパンから来た道を東へ戻り、途中の三叉路から更に2キロ
ほど行ったところにあります。チナメカから次の目的地テパルシンゴに行く途中、女
子大生二人に道を尋ねたのですが、丁度同じ方向へ行くバスを待っていたところだっ
たので、彼女達をヒッチハイクさせ、おしゃべりしながら行きました。彼女達による
と、テパルシンゴは、モレーロス州でも最も教会の多い町だそうです。
TEPALCINGO(戦火を生き延びた町): ヒッチハイクの女子大生が言うとおり、すぐに
美しい教会が目に入りました。テパルシンゴは、1200年にトラウイカ族が開いた町と
言われています。1759年から1782年に建築されたテパルシンゴ寺院はバロック建築
の最も完成された姿と称され、今も、インディヘナの芸術家が、カトリックや遠い西
洋の出来事や人物に思いを馳せ、想像を駆使して作り上げた世界を、寺院の正面に見
ることができます。
バロック建築の最も完成された姿と称されるテパルシンゴ寺院
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革命の時代にも生き延びたぼれぼれするような美しい建物です。テパルシンゴはチナ
メカから更に15キロほど東南にあります。
CUAUTLA(サパタの墓がある地): RUTA DE ZATAPAの最後の地は、モレーロス州
第2の町クアウトラです。ここで晒しものとなったサパタの死体は、クアウトラ墓地
に埋葬されましたが、後に、市内にあるPLAZA DE LA REVOLUCION革命広場に移され、
その墓の上にはサパタを称えて、「TIERRA Y LIBERTAD」をスローガンとして掲げた
PLAN DE AYALAの書類と銃を持つサパタの像が立てられました。
PLAZA DE LA REVOLUCION革命広場のPLAN DE AYALAの書類と銃を持つサパタの像
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サパタが銃撃されて死んだ後、北のパンチョ・ビジャの軍隊も敗走し、1920年に
ビジャは政府との平和協定にサインし、革命運動は終結したのでした。
革命の終結: ドゥランゴ州に与えられた牧場に一旦退いたビジャは、1923年にチワ
ワ州で暗殺されました。1917年に発布された新憲法に基づく最初の大統領カランサ
は、任期(当時は4年)を終えて、再度大統領選に出馬しようとし、反対に合い、逃
走しましたが、1920年5月にプエブラ州の山の中で暗殺されました。暫定政権を経て、
12月にアルバロ・オブレゴンが大統領となり、やっと平和が戻ったのです。
こうしてサパタの道を一巡しましたが、例えばクアウトラには、独立運動の英雄、モ
レーロスの家や独立運動の博物館もあり、巡ってきた他の町々にも、歴史ある教会、
寺院、荘園や修道院、近くには温泉場もあり、ゆっくり時間をとって見る価値があり
ます。つい、80年前まで革命の嵐に人々がおびえて生活していたとは思えない、の
どかで、小さくて静かな、ほんとうのメキシコの田舎町の風情を味わってください。
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バックナンバー
#2 メキシコの住宅事情
#3 警官への賄賂
#4 音楽友の会 10周年コンサート裏話
#5 ノーチェ ブエナ物語
#5 クリスマス行事
#6 年末年始の休みとグアダラハラ家族旅行
#6 トレス レイエス
#7 ビザの種類と更新
#8 モナルカ蝶の聖域ツアー
#9 ガールスカウト奈良支部
#10 チャイコフスキーのバレー「白鳥の湖」
#11 メキシコ縦断アメリカ転々旅行
#12 メキシコの飲み物
#13 テキーラ
#14 花が咲いて実がなった(街で見る果物)
#15 アステカ・カレンダリオの謎
#16 2000年・年越し祭り
#17 9月16日 独立記念日
#18 特別ゲスト、中村さつきさん
#19 DIA DE MUERTOS 死者の日
#20 葛飾諏訪太鼓メキシコ滞在記 (リーダー水澤啓一 記)
#21クエルナバカの年末年始
#22 メキシコ病院事情
#23 今も懐かし、街頭の物売りたち
#24 養老院YALENTAY慰問コンサート
#25 メキシコの温泉も気持ちいい(*^o^*)
#26 ノパール NOPALで健康に!
#27 メキシコの選挙
#28 ロマンチック・アシエンダ(荘園)街道巡りの散策
#29メキシコ、愛国心のしるし
#30メキシコの結婚式 − 二つの体験談
#31メキシコ原産トウモロコシ MAIZ の秘密
#32 6年に一度の大統領就任式
#33 メキシコのピニャータ
#34 火山ポポカテペトルと山麓の世界遺産−修道院群
#35 MARCHA ZAPATISTA サパティスタの行進
#36 メキシコの飲み物 第二弾 − メキシコの伝統的な飲み物
#37メキシコの飲み物 第3弾 − メキシコのアルコール飲料
#38 QUINCENERA -XV歳の社交界デビュー・フィエスタ
#39 メキシコのお金
#40「民宿かず」お客さま第一号記念
#41 メキシコの祝祭日・記念日
#42メキシコ・シティから独立記念日の実況中継
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