
「クエルナバカの碧い空」第75号 #4 トピックス − メキシコ移住−小木曽氏の場合メキシコ在住10年足らず。その間、色々な日本人に会いました。日系企業の駐在員 とその家族、移住してきて商売をしている人々、メキシコ人と結婚した人、2世の人 たち、そして、もう日本語も話さず、顔もメキシコ人になった日系3世、4世の人た ち。街でも話をしてみると苗字が日本人…。「えっ、日系の方ですか?」と聞くと、 「そうです、おじいさんが日本人でした」という人もいます。 日本人がメキシコに移民として来るようになって百年余り。メキシコ人は親日家で日 本の物に興味があるのは、これら百年前からメキシコに来て、努力の末メキシコ人の 尊敬を勝ち取った日系人がいるからです。 造園業を営まれる小木曽さんは、1959年にメキシコに来て、既に半世紀近くもメ キシコに住み、日系会を創設されるなど、常に日本人社会の発展に尽くしてきました。 現在も、商売をほぼ息子さんに任せて、日墨親交のためにメキシコ中を飛び回って活 躍されています。その小木曽さんが、ご自分の親戚など身内の人のためとして綴った アルバムがあり、今回は、それをこっそり拝見させていただきました。 小木曽さん 身内だけで読むのは勿体無いとお借りしてきました。全部は紹介できませんが、移住 当時からの体験記録として抜粋させていただきました。 では、以下、小木曽氏の記録からのごく一部の抜粋です。 日本人移民の歴史: 日本人のメキシコ入植の歴史は、独裁者ポルフィリオ・ディア ス大統領の時代までさかのぼる。彼はメキシコの農業発展のため、未開発地域の開拓 を国策とし、外国の投資や移民をどんどん受け入れていた。一方、日本側では、「植 民教会」を組織した元外務大臣榎本武揚は、1896年、個人の資格でメキシコ政府 から、チアパス州の田舎町エスクイントラのアカコヤグア村に6万5千ヘクタールの 山林の土地を買った。1897年5月、34人の最初の日本人移民がメキシコに到着 した。成功とも失敗とも言い難いこの移民計画の結果、メキシコに日本人の社会が出 来上がった。 その後、1901年から7年にかけて、炭坑、鉱山、鉄道建設などのための出稼ぎ労 働者として、1万人ほどの日本人が来墨している。苦難の連続ながらも、それなりに 成功を収める者もでてきた。人手がいるようになり、親戚、知人の若者が呼び寄せら れ、メキシコの各地に日系人社会が生まれた。しかし、1941年、太平洋戦争勃発 とともに、国境、海岸地域に住む日本人は、財産を委託処分し、メキシコ市やグアダ ラハラなどの大都市に集結させられた。 帰墨二世: メキシコやアメリカで生まれ、日本の両親の郷里や、伯父、伯母とい った縁者の許に送られて教育を受け、再び外地に戻った者のことを、それぞれ、帰墨、 帰米二世と呼んでいる。妻も帰墨二世である。メキシコの日本人移民の多くは、いつ の日か日本に戻ることを考えて、一定の期間日本の教育を受けさせていたが、戦争が 始まると、親子の間は音信不通になり、送金も途絶えた。伯父、伯母とはいえ、物資 のない時代のことで肩身の狭い思いをし、親と別れての生活は決して楽しいものでは なかったと、妻は回想している。 戦争が終わると同時に、両親がメキシコへ呼び寄せてくれた。出生証明書、引き受け 証明書などを用意し、出国手続きを行った。日本の貨物船で横浜を出航した。夢にま で見た祖国メキシコだったが、日本にいる間に言葉は忘れていた。妻はメキシコの中 学に入学した。言葉が不自由なため容易ではなかった。もっと悲しいことは、両親や 他の兄弟たちとの長い別居生活で、溝が出来てしまったことだった。忍耐力が強くな り、自立成功した帰墨二世は、親元で育った二世とは違った生き方をし、子供を育て てきた。逆境を生き抜き、我慢強く、黙ってコツコツ仕事をしている妻は、昔の母の 姿に似ている。悲しみも喜びも心の中にしまっておけるのが帰墨二世ではなかろうか。 小栗順三氏: 同郷人で、遠い親戚にあたる小栗順三が、僕の人生に与えた影響は 非常に大きい。小栗順三という人物が存在しなかったら、僕は今、メキシコに住んで いることもなかっただろう。 小栗順三は(1937年3月)16歳の時、世界的な大富豪ウエナー・グレン博士に 連れられて日本を去った。…中略…グレン博士は、メキシコの電話会社、土地会社な どを買占め、小栗には、クエルナバカ市のハルディン・コルテスを買い求め、その植 物園の支配人の仕事を任せた。ハルディン・コルテス会社は、アカプルコに広大な土 地を購入し、観葉植物や熱帯果樹栽培を始めた。 小栗は、雇われ社長だったハルディン・コルテスから独立した。クエルナバカのラス・ キンタスに小栗造園を新設、ヒューテペック植物園とジャウテペック農園は共同経営、 アカプルコ植物園のメキシコ支店は譲り受けた。住居をブエナビスタに移し、道路に 面した部分は花屋に改造した。1958年で、僕が渡航手続きをしていたときだった。 小栗社長は、辣腕な実業家だった。第16回オリンピックがメキシコで開催されると 決まったとき、オリンピック村の庭園作りを請負い…中略…僕が知っているだけでも、 プリンス・ホテル(アカプルコ)、バーバラ・ハットン女史の別荘(現在のクエルナバ カのホテル・スミヤ)、ラス・アメリカ大学(プエブラ)など等がある。 僕のこと: 昭和9年12月1日は、丹那トンネルが開通した日である。僕は、こ の日、山奥の木曽川に接する山林地帯の農家に生まれたのである。…中略…。(註: 小木曽氏は、高校時代、駅伝競走で全国大会に出場するなど陸上で活躍した後、東京 に出て、明治大学でも陸上部で活躍しました。) その後、陸上部は二年でやめることになった。授業も専門課程になり運動する暇もな くなったが、メキシコで農園技術者を求めているという話に心が動いたからでもあっ た。既に、ハルディン・コルテス農園に東京農大より二人行っていた。メキシコの言 語はスペイン語だから、高田外語スペイン語教室へ通って岡田先生の授業を受けた。 東京での学生生活に慣れてからは下宿を変え、教会へ行くようになった。世田谷カト リック教会の今田神父様より一年間公教要理を受け、ラウレンチウス(ロレンソ)の 洗礼名を授かった。教会での家族や、良き友達とのふれあいで人生が開けた。信者の 東大の先生からメキシコの日系青年を紹介された。名を千川と言い、東大医学部の留 学生だった。千川青年からメキシコの事情を聞いたり、スペイン語の雑誌などを借り た。西部劇映画を見ることが多くなった。メキシコという国が、全然分からなかった からである。 卒業と同時に、玉利先生の紹介で京都の佐野造園で実習することになった。京都は造 園の本場で、歴史ある名園を見学しながら学ぶことができた。佐野藤エ門は代々の造 園家で、桜の栽培で名を知られ、京都の名士でもある。 メキシコより大友夫妻が来日した。メキシコ渡航について話をしたいからと電話を受 け取り、大阪で会うことになった。大友夫妻はメキシコのクエルナバカ市で造園業を 経する小栗社長夫人の両親であった。社長の意向で、夫人の妹との縁談が渡航の条件 だった。大友氏の親戚とも面会した後、京都での実習を終え、田舎に帰って渡航の準 備にかかった。渡航まで1ヶ月足らず、大友夫妻が実家まで訪ねてきて、僕の両親が 納得できるようにメキシコの事情を話してくれた。両家とも家系を重んずる家で、お 互い調べた上での縁組だった。大友夫妻は滋賀県出身で家柄も良く、親戚には財界人 もあり、その一人が森永乳業の大出社長であった。 外国行きに最後まで反対した兄は、郷里の代議士の秘書の仕事、パルプ会社への推薦 就職、縁談などの話を持ってきてくれた。もし、メキシコ行きが駄目になったら、兄 の厚意を素直に受け入れるつもりでいた。今回の大友夫妻の来日で、自分が認められ、 渡航が決まったと言うのは嬉しかった。しかし、兄も母も心から賛成してはいなかっ たと思う。未知の世界メキシコは遠く、二度と会えないかもしれない旅に出ることは、 僕にとっても寂しい思いだった。祖母は悲しくなるから見送りはしないと言って、蔭 で泣いていた。出発の日、八百津まで見送ってくれた人たちの期待を裏切るまいと心 に誓い、手を振った。 日本を離れる日が来た。羽田まで母、姉妹夫婦、吉田さん、小栗夫妻、大串社長とそ のご家族が見送りに来てくれた。外国旅行は勿論初めてである。カナディアン航空で 日本語は通じず、食事のマナーも心得ず、恥かきの始まりだった。バンクーバー上空 は明るかったが、空港に着陸したときは夜だった。ホテルでの一夜は眠れなかった。 ベッド、洋式トイレ、シャワーなど、初めての経験であった。鍵を忘れて廊下に出た り、これからの生活が不安になってきた。 翌日メキシコ行きの飛行機に乗り、約7時間でメキシコ市に着いた。小栗、大友さん の家族の出迎えを受けた。長旅で頭がぼけていたのか、婚約者のみさを嬢に挨拶をし なかったのが、後々の失敗の始まりだった。何事も最初の印象は大事である。 メキシコでの庭造り: クエルナバカ市で最初に造園を任されたのは、千平方メー トルの庭で、カリフォルニア様式建築の建坪5百平方メートルの大邸宅だった。工事 に必要な材料は全てそろっており、親方と労働者は僕の命令を待っていた。主人のア メリカ婦人が、庭に椅子を出して見ていた。何から始めてよいか、冷や汗が出た。庭 があまりにも広すぎる。植木の数も多く、芝生の広さをどれだけ取ればよいか、目の 前が暗くなった。京都を思い出した。自分の心を自然に移すことであった。環境が異 なり、樹木の性質も違っている。「親方、この植木の中で一番育ちが早く、高くなる 木はどれかね」、「タバチンだ」、よし、この木をどこに植えるか決め、土地の整理 から始めることにした。植木と芝生、プールとバルコニーとの空間を取り入れた基本 的設計に基づき、親方に助けられての仕事だった。 新聞記事から−日墨会館の日本庭園の写真 引き続き、3万平方メートルの大別荘の造園が始まった。建物の設計はアイビス氏で、 日本建築である。水鉢、灯籠、庭石、瓦、内装の全てが日本から輸入された。敷地内 にある歌舞伎座の石庭は竜安寺風、京都の佐野さんが来墨、定石された。持ち主は、 チェーンストア、ウールワースで巨万の富を得た大富豪の娘バーバラ・ハットンだっ た。この別荘作りも、男性遍歴に財産を遣い果たした彼女の気まぐれのひとつで、彼 女が破産してからは人手に渡り、現在は、カミノ・レアル角屋ホテルになっている。 角屋(スミヤ)の工事で使った百人もの労働者は、博打と女と酒が好きな、一癖も二 癖もあるメキシコ人達で、ピストルやナタを身に着けているので、扱うにも命がけだ った。時には、彼らは弁当を分けてくれた。トウモロコシの粉で焼いたトルチーヤと インゲン豆が主食で、チリトウガラシをつけて食べるから辛い。食用サボテンのノパ ル、干し肉など粗食だと思われているが、実際は栄養価の高い質の良い食べ物だ。こ の現場で、プルケ(地酒)、フミール(亀虫の一種)などの珍味を知った。彼らの日常会 話は字引にない言葉を使う。丁寧な言葉では効き目がないから、こちらも、「カブロ ン(くそったれ)」、「イディオタ(大バカ野郎)」、「チンガダ(くそくらえ)」な どといった下品な言葉を使いながら命令するが、あまり馬鹿にした態度を取ると、ピ ストルの弾が飛んで来かねない。弱気にならず、相手をなかなか信用しない彼らをそ のまま受け入れるしかなかった。慣れてみれば、根は陽気で憎めないメキシコ人であ る。 メキシコでの庭園の仕事も少しずつ慣れてきた。日本庭園が好まれるようになり、庭 石を使ったり、池や滝を取り入れた庭を作ることが多くなった。山や川の石をトラッ クで運んだ。川は雨季は水で溢れているが、乾季は大小いろいろな石が転がっている。 中には日本で何千万と値のつきそうな石もある。石を持ち上げると、サソリや毒蜘蛛 がいて刺されたが、しびれることはなかった。食べてみたが、味もなかった。僕の性 格は、いつの間にかサソリより強くなっていた。 結婚: 1960年5月29日、メキシコ市のサンタ・マリア・サグラダ・ファミ リア寺院で、結婚式を挙げる。櫛田信蔵、市川清八両氏の媒酌で、タクバヤ学園ホー ルにおいて披露宴、大友、小栗両家を始め、多数の日系人諸氏から祝福を受けた。盛 大な結婚式であったが、新郎側の家族不在が心残りだった。一週間のアカプルコへの 新婚旅行の後、結婚生活の第一歩が始まった。まだ家もない僕達は、小栗家に同居し たが、妻にとっては姉と妹の間柄で、何かと便利だった。妻の両親は真面目な人たち で、頼りになった。小栗社長は政府関係の仕事で忙しく、僕もメキシコ市へ行くこと が多くなった。政府の造園工事を手掛け、夜は見積もりや図面設計で労働時間に制限 はなく、矛盾だらけの一見不可能な工事でも可能にするのが、僕の役割だった。朝、 植木を積み、労働者を乗せ、70キロの道を往復、家に帰るのはいつも夜だった。そ んな日が何年間も続いた。石の上にも三年という言葉があるが、僕にとっては十年に も思えた。 奥様とご一緒に 独立小木曽造園設立(1972年): 12年間勤めた小栗造園会社を退職した。時 機を見、将来を考えての上だった。植木の栽培地も資金もなく、身一つで出発したが、 世の中は、それほどあまいものではなかった。やっと取れた仕事は、クエルナバカ郊 外の工場地帯シバックの製薬会社と化粧品製造会社の庭園管理で、支払いは、3ヵ月 後というものだった。6人の労働者の賃金と、造園に必要な器具類の購買など、資金 調達に四苦八苦した。支払日までの生活費を稼ぐため、ピーナッツの卸業をし、家内 と一緒に売って歩いたこともあった。幼い子供達の無邪気な笑顔を見るのが辛く、あ てもなく家を出、公園のベンチで1日を過ごす日が続いた。 睡眠薬を飲むうちに、頭の毛や髭が白くなってゆくことに気づいた。友人からの借金 も断られた。妻に、「人に頼ることばかり考えず、自分で努力しなければいけない」 と言われ、改めて妻の強さを知った。この3ヶ月ほど、人生を長く感じた時はなかっ た。庭園管理(マンテニミエント)の一定収入だけでは、生活に余裕がないので、他 に仕事と求めて建築現場を回った。最初の仕事が、建築会社の社長をしているアラブ 人の別荘(1600平方メートル)だったが、金払いが悪く、散々泣かされた。クエ ルナバカは、保養地で別荘が沢山ある。その持ち主の多くが、ユダヤ系メキシコ人で ある。彼らの仕事を良く引き受けたが、あまり利益にはならなかった。支払いになる と、彼らは非常に冷酷になれた。長い苦難の歴史を持つユダヤ人は、世界各国に散ら ばった。メキシコのユダヤ人も、高級住宅地の彼らだけのコロニーに住み、メキシコ 経済を牛耳っている。全ての面において、彼らを無視することはできない。寿司のチ ェーンストア(寿司イト)、(寿司オキ)にまで、手を広げている。 メキシコにはいろんな人種が住んでいる。お人好しの日本人は、真面目で仕事熱心で 信用されているが、尊敬されてはいない。私も、ユダヤ人からバカ正直と言われた一 人である。日本人はまた、人をたやすく信用する。人を信ずることは、日本人の美徳 でもあるが、国際社会では、あまり通用しない。ユダヤ人からは散々な目にあったが、 ドイツ人は、信頼するに足りる民族である。独立した頃、植木栽培をしているドイツ 人一世に助けられたことがある。私が困っているとき、植木を貸してくれた。ユダヤ 人もドイツ人も強い国民性を持っている。自分達のアイデンティティに誇りを持ち、 己の優秀さを十分承知している。いまだに、自分達を宗主国のように考えているスペ イン人やフランス人、帝国主義で迫ってくるアメリカ人、お人好しの日本人、植民地 意識から抜けきれないメキシコ人、それぞれが利害関係で結ばれている。人種差別を しない国、陽気なメキシコ人、外国人にとっては、居心地の良い国である。 様々な活躍の結果です 小木曽マルガリータ美代子さんの日本留学リポートからの抜粋: (途中から…) 子供の頃の日本滞在が様々な新聞の記事になりました (註: 解説を全く入れずに抜粋してきましたが、ただひとつ。このリポートを書か れているお嬢さんの美代子さんは、リポートを書いたのは若き日のことで、現在は、 ドイツ人と結婚してドイツに住み、日本の文化を紹介されたりしていらっしゃいます。 また、ご次男は韓国人女性と結婚し、クエルナバカで韓国と日本料理のお店「みのや」 を経営されています。) メキシコには日系人会という組織があります。この会の中には三世会もあります。こ れは若い人たちの集まりです。みんなでスポーツやパーティやキャンプやカラオケな どをします。又日本の出身地都道府県ごとに集まります。長野とか広島とか、滋賀県 人会は特に大きいです。…中略… 一世の人たちの生活は難しいです。一世の人は日本で生まれて考え方や習慣を習わな ければならなかったのです。でも、外国人だからたとえ生活に適応同化できなくても 自分の事が弁明できます。その上に、日本の考え方もなかなか変わりません。「日本 人はずっと日本人である。他の国で生まれても日本人の血が流れていれば日本人だ」 という考え方をもっています。日本人に見えるので外国人と呼ばれる反面、日本にい る場合は日本人に見えるけれども、自分は外国人です。両方の文化を持ち続けるのは 大変です。そのうちだんだん国籍がはっきりしなくなるのです。家の中で日本の言葉 と習慣、そして、外でメキシコの言葉と文化。でもそれを利益と考えると個人のため にもなります。いっぺんに二つの言葉が習えます。知識が増えて、それで考え方が広 くなります。 ほとんどのメキシコの一世はメキシコ人との国際結婚に賛成していません。人種の偏 見ではなくて、社会の習慣が違うからです。日本人の目から見る女性の立場、身分は メキシコとは違います。今日、日本の女性の考え方は変わっているはずです。けれど も日本の女性の考え方が変わっても、メキシコ人の考え方と同じにはなりません。日 本人は日本人ですから、メキシコの習慣とは違います。一世の人は一度日本に戻りた いと思っています。自分ではなく自分の子供たちにも日本に行って日本を見てほしい と思っています。まだ家名と日本の文化を失いたくないのです。そして、ちゃんと子 供たちに日本の事を教えたいという望みがあって、日本へ子供を送って、日本と日本 の事を理解してほしいと思っています。一世は日本人と一緒にいるほうが気楽なので す。 表紙に戻る訪問者紹介へ進む バックナンバー#2 メキシコの住宅事情#3 警官への賄賂 #4 音楽友の会 10周年コンサート裏話 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